★日本三大怨霊【平将門】巡り!
こんにちわ!こんばんわ!
当ブログは神社や御朱印の紹介。
神様にまつわる話や古代の話、神社の地域や都市伝説、陰謀論、占いの話などをつらつらと紹介していこうと思います!
どーもどーも【てんてん】です。
今回は【平将門】について掘ってくよー
将門さんは超有名だから今更感はあるけどお付き合い下さい
北斗七星巡りもやってくよー
ちなみに歴史全般そーだけど、諸説あるから【それは違うよ!】と思ってもご容赦下さいね!
日本三大怨霊として菅原道真、平将門、崇徳天皇が語り継がれてるよ
神様の話とかしてると聞き慣れない言葉とか難しい言い回しが多くてムカツクからざっくりいくねー
元々、将門さんは朝廷に仕える人だったんだけど、パパが亡くなって地元に帰ることになったの
そしたら領土争いで命を狙われる事になるんだけど、将門はこれをことごとく打ち破った
強かったんだねぇ!
この争いで一目置かれるよーになった将門さんなんだけど、同時に警戒されてしまうんだよね
その後も命を狙われていく中で、戦を仕掛けられたり、朝廷に嘘を報告されて裁判になったりしたんだけど、これをことごとく掻い潜り領土を広げて、ついには関東八國を領土にしたんだよ
裁判になった一件では、以前に敵を滅したことが朝廷での自分の立場を危うくしたことから、平良兼と平良正が攻めて来た時は逃れるように、わざと隙間を作ったと言われてるんだよね。
『攻めて来たから追っ払っただけだよー』の形を作った将門さんは武功が目立つけど、めちゃめちゃ頭の良い人だったんだよね!すげい!
そして、我は新皇なり!と名乗りを挙げて、朝廷が反逆だとして、ついには討伐されてしまったんだよね
ここから将門さんの怨念が始まっていくよ
討たれた将門さんの首が京で晒されたんだけど、首は腐ることもなく
『我の身体はどこだ!首とつないでもう一戦するぞー!』
と叫び続けたと言われてるよ
こーーーーわっ!
そして三日目には首が空高く舞い上がり、東方へと飛んで行った
実に500kmも飛んだ首って想像したら超絶コワイよね
その後、天慶の乱で活躍した将門さんを葬ったお墓周辺で天変地異が頻発し、それが将門さんの御神威として人々を恐れさせた、真教上人が手厚く慰めて、さらに延慶2年に神田明神に奉祀した。
慶長5年、天下分け目の関ヶ原の戦いで、徳川家康が合戦に挑む際に戦勝祈願をして、9月15日神田祭の日に見事に勝利し天下統一したことで、縁起の良い祭礼だとして絶やすことなく執り行うように命じたんだって!
どんだけ嬉しかったんだろーねw
家康は将門さんがお気に入りで、江戸城の鬼門に神田明神を移築して将門さんを祀り守神にしました。
さらには首塚とゆかりの神社を結ぶと北斗七星の形になって
将門さんが信仰した妙見菩薩を表す北斗七星であり、家康が作った結界ではないかって言われてるよ
ここからが恐ろしいよ!
明治になると、時の政府は皇統の逆賊、将門さんの祟りを封じ込めたくて
『鉄の結界』で霊力を遮断するために山手線を作ったと言われてる。
そして、この山手線が出来上がる前に将門さんの怒りが爆発し、
関東大震災が起こったと言われてるよ
この頃ってまだまだそーゆーことがリアルだったんだね・・・
そして、関東大震災で全焼した大蔵省庁舎再建にあたり
首塚の上に仮庁舎を建設した後、わずか2年の間に大蔵大臣を含め、関係者14人が立て続けに亡くなり
さらには多くの怪我人、病人が続出したことから仮庁舎は取り壊されたんだよ
1940年には落雷による火災が付近一帯に起こり、せっかく再建した大蔵省庁舎は全焼、就職警防団員2人、重軽症者107人に及ぶ大火災。
くしくも将門さん没後、ちょうど1000年後の出来事だったの・・・
世界大戦後、米軍が首塚を取り壊し始めた頃、重機が横転し運転手が亡くなってしまい工事中止
これも調べてみると、将門さんを鎮める鎮魂碑が焼け野原から出てきたんだとか・・・
昭和に入り、首塚の一部が売却され、その地に建ったビルで働く人達が次々病気になりお祓いをした
これが全部将門さんの祟りだとしたら、とんでもないパワーだよね
明治天皇が神田明神に行幸する際に、朝廷の逆賊である将門さんを祀るなんて、あってはならんとして
後祭神から外されちゃったんだよね
でも、根強い人気から1984年に見事御祭神に復活したんだって!
また、成田さん新勝寺は平将門の乱鎮圧の際に朝廷からの怨敵退治の祈祷を命じられたことが開山の起源となっていることから、神田明神と一緒に参拝するのは良くないよって言われてるね。
信じるか信じないかははあなた次第です・・・
とゆーことで、長くなったけど、今回はこの辺で!
そして、さっき言った【北斗七星】
次回は北斗七星巡りのお話していくよー!
ではではまったねー
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